本土決戦と首都移転
1945年8月、日本政府は本土決戦ではなく、昭和天皇の御聖断で降伏の道を選び、第二次世界大戦は集結しました。
しかし、本土決戦を選択していれば、同年11月には九州南部、翌年3月には関東に連合国軍が上陸するはずでした。
日本側も上陸地点を予想しており、沿岸部に近い東京の失陥を考えて、首都機能を内陸部に移しながら、持久戦を展開しようとしました。
これが現在の長野市に作られた「松代大本営」でした。
では、なぜ松代だったのか?
これにはいくつかの理由があって、まず松代一帯の地盤が強く、空襲に耐えられると判断されたからです。
計画が本格始動した1944年7月といえば、マリアナ諸島の陥落直後になり、そこからB-29爆撃機が飛び立ち、本土空襲が始まるのは時間の問題でした。それゆえ、爆撃に対する抗堪性、地盤の硬さが移転先の条件になりました。
次に、長野県は本州で最も陸地の幅が広く、険しい山々にも囲まれているため、防衛には適していました。しかも、日本の中心部に位置する関係から、各方面への指揮を執りやすく、輸送手段として鉄道と飛行場も使えました。
本土決戦をする場合、松代は地形的には守りやすく、地理的には指揮しやすかったわけです。
ここまでが「合理的」な理由になるなか、「信州」が神州に通じるから縁起がよく、純朴な長野県民は動員しやすいなど、精神的な部分に頼る理由もありました。
人間は追い込まれると、神秘的な力にすがりたくなりますが、その焦燥感がここでも表れています。
陸軍主導の人力作業
以上の理由から松代に決まり、1944年11月には工事がスタートしました。
皇居や大本営、政府機関、放送局などを収容すべく、固い地盤に長大な地下壕を掘る作業でした。
一部施設は地上に作られましたが、その屋根は上空から隠蔽されており、地下壕への連絡路も確保されました。
ところで、本土決戦に向けた首都移転になれば、普通は政府主導で行うものの、実際は発案から工事まで陸軍主導になりました。
一方、海軍はあまり乗り気ではなく、終戦の2ヶ月前になってようやく、計画に加わる非協力体制でした。しかも、陸軍主導だったからか、自分たちの地下壕は松代地区ではなく、少し離れた場所に作るありさまです。
どうやら、海軍は独自の移転構想を持ち、九州南部の戦いを指揮するべく、奈良県に移したかったようです。
場所 | 施設 |
舞鶴山 | 皇居、宮内省 |
象山 | 政府機関、陸軍司令部、日本放送協会、中央電話局 |
皆神山 | 備蓄倉庫 |
小市地区 | 海軍司令部 |
このように挙国一致からほど遠いなか、陸軍は土地の買収とともに、住民の立ち退きを急ぎ、各地から資材をかき集めながら、その工事を急ピッチで進めました。
現在の西松建設や鹿島組が工事を請け負い、陸軍部隊と周辺の学生、朝鮮人労働者も動員されました。
作業では岩盤をダイナマイトで発破後、その残骸をトロッコで外へ運び出して、残った部分をスコップ、ツルハシで削ります。石くずは外に出したあと、動員学生や地元民が山まで運び、偵察機などに見つからないように隠します。
延べ60万人以上が関わり、昼夜交代で掘りつづけた結果、全長10kmもの地下壕ができあがり、終戦時には計画の75%が完成していました。
幸いにも本土決戦は起こらず、松代大本営はその役目を果たすことなく、終戦を迎えました。
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