正当防衛と同じ
台湾有事の可能性が上がるにつれて、日本ではアメリカとの共同作戦に加えて、台湾に対する集団的自衛権の行使など、再び「自衛権」に関心が集まりました。
2015年の安保法制において、集団的自衛権の論争は国民を巻き込み、国会の内外で攻防戦が行われましたが、そもそも自衛権とは何なのでしょうか?
まず、自衛権は「侵害から守る権利」ですが、これには2つの種類があります。
ひとつが「個別的自衛権」であって、これは自分が攻撃を受けたとき、自分の身を守る権利です。一般社会における「正当防衛」にあたり、どの国も固有の権利として保有しています。
一方、集団的自衛権は自分が攻撃されていないにもかかわらず、自分と密接な関係にある外国を守る権利です。自分は直接の被害を受けずとも、友達が暴漢に襲われていれば、普通は介入して助けるでしょう。
この場合、第三者を守る状況とはいえ、法的な概念では正当防衛に入り、権利として認められています。
まとめると、個別的自衛権は自分を守り、集団的自衛権は友達を守る権利です。
なぜ自衛権は必要なのか?
では、自衛権はなぜ必要なのでしょうか?
第二次世界大戦後の国際秩序を見ると、建前上は国連の集団安全保障に基づいて、侵略への対処と秩序維持を図る仕組みです。ある国が他国を侵略すれば、安全保障理事会の決議の下、国連加盟国が経済制裁を加えるほか、国連軍で武力懲罰を下します。
ところが、ロシアのウクライナ侵攻でも分かるとおり、実際の国連安保理は機能不全に近く、ほとんど制裁能力がありません。本来の役目を果たしたケースといえば、1991年の湾岸戦争ぐらいしかなく、あとは常任理事国の拒否権発動を受けて、安保理の制裁機能は破綻してきました。
たとえ拒否権を発動しなくても、安保理の決議までは時間がかかり、国連軍の来援はなおさら時を要します。その間にも侵略は進んでしまい、被侵略国は悠長に国連軍を待てません。
湾岸戦争の例をあげると、イラクのクウェート侵攻は1990年8月2日に始まり、国連は同日中に撤退要求決議を出すも、武力行使の決議は11月29日になりました。多国籍軍という名の下、実際に軍事介入したのは翌年の1月17日です。
集団安全保障はプロセスに時間がかかる以上、制裁発動まで時間稼ぎをせねばならず、その手段として自衛権が認められました。国連憲章の第51条において、加盟国は個別的・集団的自衛権を持ち、国連安保理が介入するまでに限り、その行使を容認どころか、むしろ推奨してきました。
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この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。
すなわち、集団安全保障が機能するまでの時間を稼ぎ、生存確保の手段として自衛権があるわけです。
そして、中・小国が侵略を受けやすい以上、単独では侵略国に太刀打ちできず、仲間の助けを借りながら、国連の介入まで持ちこたえるべく、集団的自衛権も与えられています。中・小国は仲間同士でチームを組み、国連が来るまで頑張れという感じです。
この集団的自衛権は「同盟」の根拠であって、二国間の軍事同盟は言うまでもなく、NATOなどの集団防衛の基盤になります。どこかの国と同盟を組む場合、集団的自衛権の行使が前提になり、本来は議論するまでもない「当たり前」の事柄です。
日本もひとつの主権国家である限り、個別的・集団的自衛権を保有するものの、憲法との兼ね合いを考えて、自ら後者を制限してきました。
さらに、日米同盟は通常の相互防衛とは違い、日本が米軍に基地を提供しながら、アメリカが軍事力を提供する特殊な関係です。
それゆえ、在日米軍基地を守る責務はあれども、最前線で米軍とともに肩を並べて戦い、彼らを守る集団的自衛権は想定せず、これが日本人の同盟観を歪めてきました。
されど、ここまで解説してきたとおり、本来の同盟とは集団的自衛権に基づき、共に戦って互いを守るものです。
自衛権発動の諸条件
自分と仲間を守る手段とはいえ、世の中の正当防衛と同じく、自衛権は濫用してはならず、以下の要件を満たさねばなりません。
- 急迫性:急迫不正の侵害があること。
- 必要性:他にこれを排除して、防衛する手段がないこと。
- 均衡性:必要な限度にとどめること。
軍事侵攻を受けたからといって、いきなり相手の都市部を焼き払ったり、滅亡に追い込んではいけません。あくまで被占領地を取り戻す、敵の撃退するぐらいに止めておき、国連の制裁発動や国連軍の介入が実施されると、自衛権に基づく戦闘は停止します(原則論)。
正当防衛でたとえると、相手を殴り返すのはいいとして、瀕死に追いやるのは「過剰防衛」にあたり、最低限の自己防衛以外は警察に委ねます。
つまり、自衛権とは個別的・集団的を問わず、国連の集団安全保障という前提の下、その制裁機能が働くまで時間を稼ぎ、特に中・小国の生存性を高める権利です。
本来ならば、自衛権は緊急手段にすぎず、その延長線上には集団安全保障があるものの、現状では国連安保理が機能しておらず、本来の集団安全保障が保証できないため、事実上の最終防衛手段となりました。
だから集団的自衛権を議論するならば、この現実と理想のギャップをふまえながら、空想的な理念や自分たちの願望ではなく、実用性の範囲で議論せねばなりません。
ちなみに、日本は安保法制の成立にともない、集団的自衛権の限定的な行使を容認しました。その発動条件はアメリカを念頭に置き、日本と密接な関係にある他国に武力攻撃が起きて、これにより日本の存立が脅かされたり、国民の生命・自由・幸福追求の権利に危険が迫り、他に取り得る手段がない場合です。
いろいろ条件が付き、最終的には解釈次第といえますが、これで自衛隊が攻撃されていなくても、同盟相手の米軍を防衛できるようになり、同盟関係は対等に近づきました。
それまではただ黙って見ている、あるいは個別的自衛権を発動させるべく、自らも攻撃に巻き込むようにするなど、相当無理な運用を余儀なくされていました。
この歴史的経緯をふり返ると、まともな同盟の運用・管理に近づき、オーストラリアに適用範囲を広げて、準同盟の拡張に大きく貢献しました。
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