放射線漏れによる紆余曲折
原子力の平和利用といえば、原子力発電所が思い浮かぶなか、じつは日本もかつては原子力で動く船を保有していました。
それは原子力空母のような軍艦ではなく、あくまで技術的な実験船として建造されたものでした。しかも、その就役は1972年までさかのぼり、軍艦以外の原子力船としては世界4番目にあたります。
- 基本性能:原子力船「むつ」
排水量 | 8,242t |
全 長 | 130.4m |
全 幅 | 19m |
乗組員 | 80名 |
速 力 | 17.7ノット(時速32.8km) |
建造費 | 64億円(当時) |
日本初の原子力船は母港の青森県・大湊にちなみ、「むつ」と名付けられたうえ、1969年の進水式には皇太子夫妻や首相が出席するなど、大きな期待と注目を集めました。
高度経済成長であらゆる消費量が増えるなか、原子力は次世代エネルギーとして見なされており、船を半永久的に動かせる夢の仕組みとされていました。石油を海外輸入に頼る以上、それが途絶えるリスクからは逃れられず、原子力に代わりを求めたのは自然な発想でした。
その道を切り開くべき「むつ」でしたが、1974年9月の試験航海で原子炉からの「放射線漏れ」が発生が起きます。これは微量の高速中性子が隙間から漏れ出たもので、設計上のミスが原因でした(原子炉自体は米国製)。
核燃料などの放射性物質をともなう「放射能漏れ」とは異なるものの、事故であるのは変わらず、マスコミの報道も加わって、母港周辺を中心に大きな反発を呼びました。
その結果、「むつ」は母港の大湊には帰れず、しばらく漂流した末に、1978年に長崎県・佐世保に向かいます。ここで改修工事を行い、その間に大湊とは別の場所に新しい母港を作ることを決めました。
反対運動が起きるなか、1982年には大湊へと戻り、1988年には同じ青森県・むつ市に整備された関根浜港に入りました。
原子力船から海洋調査船へ
こうして期待から一転して嫌われる存在となり、再びいくつかの試験航海を無事に終えて、ようやく完成したのは1991年になってからでした。
その後、地球2周分以上にあたる82,000kmを原子力航行で進み、実験航海を問題なくこなしたのはもちろん、荒れた海でも良好な性能を示しました。
わずか1年という実験航海ながらも、そこで得られたデータや知見は大きく、日本の原子力運用に貢献しています。
実験船としての役割を果たしたことで、1995年には原子炉を取り除き、現在は制御室ともに「むつ科学技術館(青森県・むつ市)」に展示されています。
一方、その船体はまだ使えたことから、海洋研究開発機構の調査船「みらい」として再就役しました。むろん、この「みらい」は原子力船ではなく、通常のディーゼル・エンジンを積んでおり、大型観測船として日本の海洋調査を支えています。
ただし、現在は老朽化が進んでいるため、後継船となる「みらいⅡ」が登場するのをもって、2025年度には退役予定です。
放射線漏れで不運な運命をたどったとはいえ、日本初の原子力船の功績は決して小さくはなく、「みらい」に生まれ変わってからの貢献ぶりとともに、改めて評価されるべきでしょう。
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