どうなるシリア内戦?アサド政権の崩壊と反政府勢力の勝利

シリアの国旗 外国
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長期内戦の劇的な終結

2024年12月、約13年にわたったシリア内戦が終わり、親子2代で半世紀以上も続いた独裁政権が崩壊しました。

それは電光石火のごとく進み、ここ数年の反政府勢力は劣勢だったにもかかわらず、攻勢開始からわずか11日で首都・ダマスカスを陥落させました。

アサド政権とシリア内戦

シリアの歴史を軽く見ると、1960年代にバアス党が政権を握り、そこから初代・アサド大統領が生まれます(1971年)。

これはアサドの個人独裁ではなく、大統領を中心としながらも、バアス党と軍隊、警察機関などによる集団独裁体制でした。2000年にはバシャール・アサドが大統領に就き、バアス党による独裁体制が続きます。

このバシャール・アサドは次男にあたり、イギリス留学の経験もある眼科医でした。それが兄の事故死にともない、父の後継者として政治の世界に入り、2代目・アサドになったわけです。

ただ、父や兄との比較、カリスマ不足に悩み、その政治的基盤は強固ではありませんでした。もともと軍人や政治家ですらなく、父親以上に党の重鎮に頼らねばならず、ある種のコンプレックスを抱えます。その裏返しからか、暴力と恐怖による強権政治を行い、秘密警察を使った監視社会を作り上げました。

アサドとプーチンアサド(左)と後ろ盾のプーチン(右)

そして、2011年に起きた「アラブの春」がシリアにもおよび、いろんな反政府勢力が蜂起する内戦に発展しました。しかし、反政府側は一枚岩ではなく、穏健的な民主派やイスラム過激派、少数民族・宗派の部隊が乱立しています。

この寄せ集めに加えて、あの悪名高いイスラム国も興り、シリアは群雄割拠の時代に突入しました。その間、ロシアは地上部隊と空軍を送り込み、イランも傀儡のヒズボラ(レバノンの武装勢力)を通じてアサドを助けます。

おかげで政権側が徐々に優勢になり、大統領自身も中東諸国との外交を再開させるなど、表舞台への復帰も進んでいました。これはひとえにロシア・イランによる支援、反政府勢力の結束力の弱さ、アメリカの不介入が原因です。

もしオバマ大統領が内戦初期に介入していれば、ロシアは軍隊を送り込めず、アサド政権も長くは持たなかったでしょう。リベラル派にもかかわらず、オバマ政権は冷淡な態度をとり、結果的には内戦を長引かせました。

三つ巴の反政府側

政権側が優位と思われたなか、2024年11月末に反政府側の攻勢が始まり、いきなり第2都市・アレッポが陥落しました。

その中心的役割を担ったのが「シャーム解放機構(HTS)」という勢力です。

HTSは「ヌスラ戦線」という前身を持ち、もともとはアルカイダ系の過激派組織でした。現在もアメリカがテロ組織として扱うなか、HTS自身はアルカイダとの関係を絶ったと主張しています。

あくまでアサド政権を倒すべく、2016年頃にアルカイダと手を切り、他国からの支援を引き出したり、統治上の正当性を狙いました。

アサド政権は彼らを北西部に押し込み、近年は優位にあったものの、HTSは油田地帯を支配下に収めながら、その経済力で数万人規模に成長します。そして、雌伏の時を経た2024年末、アサド政権に対する反転攻勢を発動しました。

HTSのほかにも、2つの主要勢力があって、そのひとつが「シリア国民軍(SNA)」です。このSNAはトルコに支援されており、国境沿いの北部地域を支配してきました。

3つ目はクルド系が主体の「シリア民主軍(SDF)」ですが、トルコはクルド人を敵視しています。そのため、トルコはSDFの台頭を抑えるべく、傘下のSNAを通じてシリアに介入してきました。

以上をまとめると、元アルカイダ系のHTS、ほぼトルコの傭兵であるSNA、クルド主体のSDFという三つ巴の構図です。

シリア内戦の関係図主に三つ巴の反政府勢力

これらは反アサド・反イスラム国とはいえ、それ以外の共通点はあまりなく、たびたび互いを攻撃してきました。

当然ながら、内ゲバはアサド側を利する形になり、その政権延命をアシストしました。

弱体化の好機をとらえた

ところが、アサド支援のロシアがウクライナ侵攻で苦しみ、その軍事力や影響力が弱まると、状況が変わりはじめます。

まず、ここ数年のHTSは力を蓄えながら、トルコにも非公式に接触していました(攻勢も事前通知)。

対するアサド政権は停滞気味の戦況で気が緩み、楽観ムードもあったのは否めません。仮にロシアの指導の下、政府軍を訓練で鍛え直していれば、あそこまでの潰走はしなかったはずです。

実際のロシアは訓練支援する余裕すらなく、そこにイスラエル=ハマス戦争がレバノンに飛び火して、ヒズボラが大きな打撃を受けました。

このロシア、ヒズボラの弱体化を受けて、HTSは大規模攻勢を仕掛けました。それに呼応すべく、北部からはトルコ支援下のSNA、北東部ではクルド主体のSDF、南部では武装勢力の連合が動き出します。

不意を突かれた政府軍は降伏や敗走が相次ぎ、ロシアとイランも助けられず、これが士気崩壊を加速させました。

シリアに駐留するロシア軍シリアに展開するロシア軍

プーチンが見捨てた結果、アサド政権は11日間の攻勢で終わり、首都・ダマスカスは無血開城しました。アサド自身は首都決戦に備えるべく、軍隊を首都近郊に集めますが、その軍や警察機関から内応者が出て、反政府側と降伏交渉をしたそうです。

すなわち、長い内戦で政権側も弱体化していたところ、孤立無援の状態に陥り、身内からの裏切りもあって、あっけなく政権崩壊を迎えました。アサド自身はロシアに亡命したあと、反政府派への平和的な政権移譲を表明しました。

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