ソ連を最初に迎え撃つ
最近の陸上自衛隊は日本版海兵隊・水陸機動団を創設したり、沖縄方面の防備を強化する「南西シフト」を進めていますが、これまでは対ソ連・対ロシアを意識した「北方偏重」が基本姿勢でした。
とりわけ冷戦期はソ連の着上陸侵攻が想定されるなか、北海道に最大4個師団もの戦力を集中させました。そのなかで、真っ先に迎え撃つ役割を課せられたのが、旭川の第2師団です。
- 基本情報:陸上自衛隊 第2師団
人 員 | 約7,500名 |
創 設 | 1962年1月18日 |
司令部 | 北海道 旭川駐屯地 |
担当範囲 | 北海道 道北地域 |
駐屯地 | 旭川、名寄、遠軽、留萌、上富良野 |
戦 力 | 1個戦車連隊 2個普通科連隊 1個即応機動連隊 1個特科連隊 1個後方支援連隊 1個高射特科大隊 1個偵察隊 1個飛行隊 など |
第2師団は「北鎮師団」の愛称を持ち、旭川駐屯地を拠点とする部隊ですが、これは同じ旭川で「北鎮部隊」として知られていた旧陸軍・第7師団の役割を受け継いだものです。
したがって、第2師団には74式戦車など当時の新型装備が優先的に配備されたり、いまも第7師団(機甲師団)以外では唯一となる連隊規模の戦車部隊を運用しています。
このように本州の陸自師団よりも部隊規模が大きく、優れた人員・装備が与えられたわけですが、その役目は稚内や天塩、浜頓別などに上陸したソ連軍を音威子府で迎撃することでした。
ここで侵攻を食い止めるとともに、増援が来るまで持ちこたえるのが理想とはいえ、さすがに単独では荷が重く、実際にはジリジリ後退しながら時間稼ぎするつもりだったようです。
すなわち、決戦兵力である第7師団やアメリカの援軍が到着するまで、領土と時間を交換する「遅滞戦闘」を期待されていました。この遅滞戦術には陸地の縦深性が欠かせず、広大な北海道だからこそできたものでした。
しかし、最前線での遅滞戦闘は多数の死傷者が出るため、第2師団は事実上の「捨て石」だったともいえます。
師団そのものは最終的に壊滅するという認識が強く、その後のゲリラ戦(遊撃戦)に移行すべく、レンジャー隊員が多く配置されました。
機動師団への改編
ソ連崩壊後は「捨て石」意識も薄れましたが、それでもロシア軍の侵攻があれば、迎撃と時間稼ぎという同じ役割を果たさねばなりません。
ただし、現在のロシアはウクライナ侵攻で激しく損耗しているため、北海道への本格的侵攻を行う余力などなく、第2師団が「捨て石」となる可能性は下がりました。
こうした情勢変化を受けて、第2師団も地域配備型から他地域への展開も行う機動師団に変更されました。そこで、遅滞戦闘をする名寄の普通科連隊も即応機動連隊に改編されたほか、16式機動戦闘車の配備で機動力と火力が強化されました。
配備された16式機動戦闘車(出典:第2師団)
また、北海道全体では火砲や戦車部隊の人員削減が進むなか、即応展開部隊はむしろ増員しており、第2師団も旭川や上富良野では隊員が減るものの、即応機動連隊のある名寄駐屯地は逆に増える予定です。
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